海底室

ブクブク

PRIDE月間に寄せて

6月はPRIDE月間だそうなのでなんか書こうかな~と思いました。

特に最近はTwitterでトランス差別とかそれにつながるような言説をRTとか、そういうのがいっぺえあるので……なんというか己を鎮めるためにも……。

良くないので本当にやめようね。

 

 

私は多分ノンバイナリーなので広義的にはトランスジェンダーになるのか…?と思っている。

多分というのは結構それが消極的な自認だからである。そもそも性を自認することが根本的にわかっておらず、女でも男でもないのでじゃあノンバイナリー?みたいな具合。

とは言え女と扱われながら社会生活をすることには結構慣れたので、特別な困難を感じているわけではない。けども子供の頃のそれは今思えばなかなか深刻だった気がする。

スカートが嫌とか男物が良いとか傍目から見れば多分「男勝りな女の子」くらいの発露だったんだけども、その抵抗感は子供ながらに大概なものだった。子供だから「女の子ではない」を表現するためには「男みたいになる」しか思いつかなかったので男のように振る舞っていたが、実際男になりたかったかと言われると謎もある。でも男のようになりたさが切実だった気もするな。

どうして「女の子ではない」とアピールしていたかと言えば、周囲が女の子として扱うからだ。特に祖母や親戚の態度が顕著だった。親きょうだいはどちらかといえば尊重してくれた方だ。一人称を”私”に矯正しようとする・おしとやかにしているよう言われる・お嫁さんが云々言われる・”女の子”だから贔屓する のようなことを他にもいろいろされていて、どんどん嫌になっていく。

よく「心の性別」などと言って「本人が自発的にそう思う」と思われているが、個人的な体感としてはむしろ周囲との認識の違いによって軋轢が生じ、そこに生まれる淀みみたいなのを逃すために”性自認”を知識として覚える、みたいな感じである気がする(もちろん自発的に思う人もいるだろう)。

なので「心の性別なんて勘違い、本人の中のジェンダー観の問題」というのはまったく的外れな私的なのだと思っている。なぜなら、本人がどういう価値観を持っていたとしても、周囲が自分の認識と違う扱いをしてくれば、必然的にそこには淀みが生まれる。本当にジェンダーロールが解体される世の中がくればまた色々変わるかもしれないが、少なくとも私が生きている内には不可能だろう。なので、「ジェンダーロールを解体すればいいのだからトランスへの配慮は無用」というのも無効だと思う。解体までの間もトランスは存在し続けるのだから。

この自分の認識と他者からの扱いの軋轢は、多分日本生まれ日本育ちなのに外国人のように扱われるダブルの話とも似たところがあるのかもしれない。(全然違ったらすみません…)

中学でスカートの制服を着るときも、最初の方はめちゃめちゃ抵抗感があった。中に短パン履いてるから、という意識を持つことでなんとかやり過ごしていた。段々慣れて、”私”の使い方も板についていくわけだが、あれは明確に諦めの姿勢であった。多分こういう風に制服とか一人称とか申請書の性別欄とか男女別競技とかで次第に諦めていったクィアがいっぱいいるんだろうと思う。「なんで”俺”って言うの?」という素朴な疑問に答えるのがめんどくさくて初対面には”私”を使うのだけど、そういう「めんどくさいから諦めよう」を繰り返していく内に社会に均されていく…んだろうなあ……。

小学生当時仲の良かった男子(と思っていた同級生)に対してこれは恋愛なのか?と模索していたこともあったが、今考えても全然恋愛ではないと思う。普通に仲が良かった。しかし小学校高学年で男と女が仲良くしていれば恋愛という価値観が非常に強い中ではそういう模索も必然だろう。結局同級生は引っ越していって特にその後も知らない。そういうものだなあ。

あれ以来恋愛感情というものの定義がいまいちよくわかっていない。「とても大好き」というのは思うけど、それが恋愛と友愛と家族愛などを分ける線がどこにあるのだろう。だから多分「好き」をカテゴライズした際のなんか…余り?みたいなものだと思ってるんですが……(失礼)。「ドキドキしたら」とか「性的接触をしたいと思ったら」みたいな定義が巷には溢れているけど、それに当てはまらない恋愛感情を持っている人もどうやらいるみたいだからその「どのように発露するか」は個人差があるのかな。家族を大切に思えば「家族愛」、友を大切に思えば「友愛」、ならば恋人を大切に思えば「恋愛」なのかと思うけど、恋愛は基本的に関係に名前をつける前から発生する感情である。だからなんかこう明確に定義は存在しないが「特別に好き」みたいな感情を雑に括ってフィクション等の雰囲気でパッケージングしたもの、と思っている……。真実はわかりません……。フィクションの恋愛は劇的でわかりやすいんだけど現実に言われる恋愛はもっとぬるい温度のもあるのでますますわからない。この感じで言うとクワロマンティックでもあるんだと思う。「すごく好き」と「恋愛」がいまいち接続しない。

自分のことパンセクシャルと思ってたけど「恋愛がいまいちわからないから恋愛のイメージに性別が関係なくなる」だけか?「とても好きな人間」と「好きな人間」と「普通の人間」などがいるだけで、そもそも恋愛指向というものがない……?わからなくなってきた。俺はまあそれでもいいと思ってるけど、世の中ってそうはいかないじゃないですか。あとわからないものを納得したいという下卑た心もあります。

同性愛表象が好きで男女コンビを異性愛に接続するのが嫌いっていうのも、結局は異性愛規範と恋愛伴侶規範が嫌だからで、根本的には「ずっと一緒にいる2人(ないし3人や4人など)が好き」というだけっぽいしな。入り組んだ内心だな~。でもみんな紐解いてみたらこんな風に入り組んでるんじゃないんですか?みんなの入り組んだ内心も開示してみてね!(やだよ~)

この世、自分がわからないことが大手を振ってまかり通りがちなのでとかくモヤっとすることばかりですね。近頃はだいぶストレスフリー生活なので不自由ばかりだった子供の頃よりはるかに生きやすいんだけど、まだまだ自覚してない嫌~な点とかあるよなあ。いちいち怒ることで自分の矜持を取り戻している気がする。ほどほどに生きよう。

将来家とか買いたいな。家買って好き勝手な間取りにしたい。戸建てがいいけど集合住宅でもまあ良しとしよう。できるかはわからんけど。二人暮らしで子供もいないのでワンチャンあるんちゃうかなあ~と思う。でも貯金が苦手だからわからんね。

 

そういえばと思いだしたんだけど、「性欲」が外に向くという感覚もよくわかってないな。性欲が常に内向きなもので、誰かや特定の属性に「ムラムラする」みたいなのを実感として得たことがない。というかそれって何でどういうことなんだろうとも思っている。見てるとシコりたくなってくるみたいなこと?フィクションではなんかそういう感じの様式美だが…。

「性対象となる属性」の観念が難しいかもしれない。全部難しくなってんな。