海底室

ブクブク

芸術 #とは

長谷酸が洋館サスペンスに巻き込まれるやつ書きた~~~い!!!!!!!!!

またお前は他の作りかけのやつを放置して新しいのを書こうとして恥ずかしいとは思わないんですか?でもこういうのって勢いが大事なので……これ言うの何回目だろうな……。

でもさすがにレゾ書き終わったあとに執筆ってことにしたいかな。今はプロットとかネタ出しなんでね……許してね……。

 

急にミリシタの話するんですけどクルリウタすごい良くないですか?こういうシナリオが泣けるホラーゲーム主題歌っぽい歌大好きなんですよね。大抵ゲームの紹介PVとかOP映像も良いんだよなこういうのは。まあそういうことで洋館サスペンスが書きたいんですけど……。

摂取してるコンテンツに影響を受けやすいオタク。実は帝都怪奇譚みたいな内容も書きたいと思っています。

 

で、内容が原作軸で、洋館サスペンス(というかミステリー?)で、ベタっちゃベタだけど内容はしっかり詰めたいなとも思っている。贅沢者め。ミステリーなんか書いたことないから一応ノウハウを調べてセオリーに則って書きたいですね……。

ミステリーの洋館って大抵なんか特徴があるので、どういう洋館にしようかな~と考えたところ、著名な芸術家(故人)の遺産で、たくさん作品が置いてあるような洋館にしよう!という感じです。

で、上遠野二次創作ってちゃんとストーリーを作ろうと思えば思うほど自分の思想と切り離せないところが出るなと思ってて、芸術とか表現物とかその辺のことについて自分の考えをしっかりまとめてからプロット練った方がいいなって……。

参さんに手伝ってもらって対談したりしながら考えを色々巡らせてみたので、ここで一筆したためよう。別にネタ帳に書けばいいんだろうけどブログ形式の方が書きやすいんだよな。

 

 

芸術作品は言わば表現物である。それが内包する意図は一旦置いといて、なにかを表しているものであって、役に立つためであったり、実用するものではない。”技術”とは違う風に思う。

いや磨き上げられた技術のことを「これはもはや芸術だ!」という風に言うじゃん、と思うかもしれないが、その「もはや」こそが味噌で、この言葉の中には「実用上そこまで磨き上げなくても問題はないが、それでも究極に突き詰めたものである」のような意味合いが籠もっている。つまり”芸術”として評される部分はあってもなくてもまあいいのである。

表現をするのは他者に伝えるためだと思っていたけど、表現行為の中には「日記を書く」みたいなこともある。こういうネットの隅を漂ってるブログならまだしも、世の中には誰にも見せない日記を書いている人はいっぱいいる。それらもまた等しく表現行為ではあって、更に他者に伝える役割を持たない。では表現行為の目的とはなんだろう。

デジタル大辞泉によると「表現」は

[名](スル)心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など。「情感を—する」「全身で—する」

だそうです。

自分→他者というよりは内→外という感覚が正しいのかもしれない。他者になにかを伝えるというのも目的の一つではあるが、元々の意味というかより包含的な言い方をするなら「自分の中に起こった感情や考えを、社会によってもたらされた手法で表すことにより、外界から見たらどのようなものであるかを自覚する行い」という風に言えるのかしら?自分の中だけにある状態では記録もできないし、なかなか社会規範を内面化している自身では自覚もしづらい。だから一度社会(他者)との共通言語を用いて、自分の考えが世界にどんな風に位置づくのか表す。のような。

自分を写し取って眺めるような行いだからこそ、登場人物として他者が存在せずとも表現行為は成り立つ。しかし、他者と共有する手法を用いていることから、本質的には自分の中の他者と価値観をすり合わせるような行いとも言える。

じゃあ例えばめちゃめちゃに絵の具を塗りたくった抽象画を描いている人は他者と共有している手法と言えるのか?ともなるだろう。私はなると思う。なぜなら紙やキャンバスに色を塗りたくる行為そのものが、外界と共有する手法であるためだ。自分の感情を他者と共有しない方法で表すなら、「はちゃめちゃに念じる」とか「眼球をぐるぐる回す」とか「やみくもにカーテンを開け閉めする」とかでもいいんだが、実際にそのようにしている人はほぼいない(もしかしたら私以外のみんなしてるかもしれない。怖い)。社会規範のない赤ちゃんみたいに喃語を喋って指をしゃぶってもいいが、それを表現行為として一人で行っている大人はなかなかいない。もしかしたらいるかもしれない。想像で喋っています。

表現行為には「他者と共有する手法である」という条件が付き纏うのかもしれない。本質的に他者を介在させるものである以上、それは必須だろうと思う。前衛的な絵画も、彫刻も、ダンスも歌も詩も結局はみんながやっているもののやり方を崩したりしているだけとも言える。

 

表現が「自分の内面を写し取る」行いだとするなら、究極的な表現とは「自分の内面がそっくりそのまま投影されている」ことに他ならない。そして内面とは言語でも絵画でも音楽でもないから、そっくりそのまま投影されることは不可能だ。どんなに技術が発展したとしても、私はそう思っている。

じゃあなんでそんな不完全な行いをずっとやっているのかと言えば、自己が他者との関わりの間にしか存在できないから、という話にかかってくるのかと思う。世界に自分の精神しかなければ、自己を自己として認識し得ない。他者、あるいは他存在(石や草などでもいいかもしれない)があって初めて、自分がどういう形と色と心を持っているか掴む足がかりになる。そして他の存在をなぞるようにして表現し、その表現行為の内容が他存在と違っている(ないし同じである)ことをもってして、更に自分の理解を深めていく。

え~じゃあなんで自分なんて知りたいんだろう。それはまた別トピックかな。別途話し合いま~す。

 

芸術が表現行為であるならば、表現行為は芸術なのかというと、そうとは限らない。芸術は表現行為の一部であり、表現⊃芸術である。

またデジタル大辞泉から引用するけど、「芸術」は

 特定の材料様式などによって美を追求表現しようとする人間活動。および、その所産絵画・彫刻建築などの空間芸術音楽文学など時間芸術演劇・映画舞踊オペラなどの総合芸術など。「—の秋」「—品」

だそうです。(2に「学芸と技術」って書いてたけど俺は技術は別だと思う!辞書に文句言うな)

芸術にはやはり「美」がつきものだ。ただこの「美」というのは単純に造形の美しさなどを指すのではなく、(磨き上げられた技術を芸術と呼ぶように)ニュアンスとしてはその分野において非常に優れていること、を指すのかな、と思う。

でも芸術が表現行為である以上、そこには作り手の内面の反映があるはずだ。それなのに優れていること、ってどういうことだろう。

何が言いたいかってーと、人間の内面は美しいばかりでなく、まあ普通に汚いのもある。少なくとも社会ではそのように換算される。じゃあその内面を写し取った芸術を作ったとして、果たして美しいものになるのか?という疑問だ。

もちろん、表現の様式は様々であるため、汚い内面を非常に優れた表現物に仕上げて評価を得ている作品はいっぱいある。でもそういう風に美しいものにしないほうが内面って精巧に表現できるんじゃないのか?

どんな内面でも”美しく”表現する行いが芸術ということなんだろうか。磨き上げられたものはどんなに醜い内面を表していても美しく見える、みたいな意見もあるだろうけど私はそうは思わない。評価されている作品の中にそういったものがあるだけで、評価されていないものの中には汚い内面を正確に写し取った結果醜くなっているものもあるはずだ。いや、評価されているものの中でもそうかもしれない。

こうなると美の基準が「優れている」だけではない気がしてくるな。むしろ「美しい」から「評価されている」のでなく、「評価されている」から「美しい」のか。美的感覚が大なり小なり社会的なものである以上、それは普通に考え得ることだな。じゃあ芸術作品とは「評価を得るために磨き上げるもの」になる。そんなのってアリか?

でもそうかあ。一般に芸術と評されるものには権威があり、誰が描いたか、誰が評価したか、何人がいいねしてるかで”力”が変わってくる。評価されているものはただの「作品」であり、芸術などとは呼ばない。インターネットの隅に漂っているこんなブログを誰も芸術だと思わないように。

じゃあ作品を作って→高く評価されるというプロセスを経たものしか芸術たり得ない。表現物は自分の内面に他者を介在させることで自己を浮き彫りにする行為であるが、芸術はそこに更に他者の評価を必要とする。非常に他者を基準とした作品ってことだろうか。

評価されよう!と思って作った芸術作品が多く在るように、そう思わないで作った芸術作品もまた多く在るはずだ。評価されようとして他者からの印象をチューニングした作品と、自分の好きなように描いて結果的に評価を受けた作品なのに、結果として評価を受ければ同じように”芸術”である。表現物の目的が「自己の内面を表すこと」なのに、芸術の目的はそうではないということか。いや、芸術はむしろ目的の存在しない、「結果」のみの現象なのか?

芸術である、という現象そのものにはなにか指向する目的がなく、「評価されたから」発生したもので、すごいなんか……空っぽのものなのかもしれない。お金とか国家みたいに、みんながそう言うから在ると思ってるだけのもの。

 

それならば至高の芸術って目指せるものではないのかもしれない。芸術に指向性がない以上、目指す場所がない。”一番高い評価を受ける”ことが至高の芸術と言えるが、それはある一時、ある状況とある場所によってのものであり、評価が相対的で流動するものである以上、そこに永遠性は見込めない。どんなに美しく、どんなに自分を表現できていても、やがて価値が変わり社会が変われば、至高ではなくなる。至高”だった”ものになる。

「芸術家」という肩書もいやに空っぽになる。作品に価値を見込まれたからそうなっただけの人。十把一絡げの無名の絵描きを芸術家とは言わない。目指したからなったのではなく、社会が評価すれば芸術家であり、それ以上でも以下でもない。価値を値踏みされた人だ。

じゃあ特定の芸術家に憧れた人って一体どうなればいいんだろう。芸術家のそれは他者から受けた評価であるから、自分も同じように評価を受けるように努力すればいいんだろうか。同じ絵を描いたとしても同じ評価を受けることはできないから、時代や状況に合わせてチューニングして、同じ評価を受け続けることで、その芸術家のようになる……みたいな。

綺麗だな、こんな絵を描きたいな、と思う心はどこから来てるんだろう。まったく同じ絵だったら描く必要はない。すでにあるから。そのような技術で自分の思う空想を描きとりたい、という願望だろう。だったら、その憧れは技術力への憧れということか?その絵そのものが表す内面ではなく、表現する技法の。

 

芸術に触れる側のことも考えようかな。表現物を公開すれば、当然誰かの目に触れる。その触れた誰かの中に表現物へのなんらかの感情を呼び起こす。それは一般に感動と呼ばれるものであっても、不快感でも、無関心でもなんでもいい。鑑賞者は作品に触れて、自分の中のものさしで作品をはかるだろう。当然作り手とまったく同じような価値観を持っていることはないため、感じ取ることにも差異が生じる。

鑑賞者の中にあるものさしは、外的な刺激を受けながら、社会の規範を内面化しながら作り上げたものであり、完全に当人独自のものであることはあり得ない。必ずそこには他者が介在している。

その他者が介在したものさしで、他者が作った作品を鑑賞し、起こった感情を自分のものとして取り込む。そうしてまた他者によって彩られた”自己”が強化されていくんだと思う。外部からそうやって刺激を受けることの繰り返しだ。

表現物は、他者の自己を固めるために取り込まれていく。しかし、他者が自己を強化すればするほど、作り手が表現したかった自己の内面は、鑑賞者の自我によって”歪められて”いく。たとえば他者がみんな自分と同じ精神を持っていれば、「言いたいこと全然伝わんない!」みたいなことにはならない。表現物の目的が達成され、作り手は嬉しいはずだ。

でもきっと多くの作り手はそれを望まない。なんとなく肌感覚で言ってるだけだけど、他に自分とまったく同質の人間がいたとして、そいつ相手になにか表現しようとあまり思わない。他者が違っているからこそ表現をしなければならない、と思う。

表現によって他者へ伝えることは、他者を作り変える行いだと思う。多少なりとも他者の中に自分の発した表現によるものさしを植え付けて、考え方に影響を及ぼしていく。そのときに起こる反応こそが、人間にとって必要なものなのか?

同質の存在に表現をしたとして、「うん、そうだね」となるだけで、鑑賞者の精神にはさざ波一つ立たない。なんら違わないからだ。異質の存在に問いかけて返ってきたまったく別の反応を見て、外界においての自己の位置を知る。イルカのエコーに似ていますね。そういう感じなのかな。それだったら、表現において目指すものは自分をより正確に、一切の間違いなく伝えることではなく、できるだけ多く、濃く、強く伝えることと言えるのかもしれない。そして反応を貰うことこそが、表現をする者が求めているものなのか。

日記然り、自己満足のイラスト然りなんだが、人に見せない表現物は存在する。しかしそれは他者と共有する手法により表現した作品が≠自己の内面であることによって、遠回しに外部刺激を得ている行いとも言えるのかな。

誰かにここにいて、何かを考えていることを知ってほしいから表現をしている。芸術作品の根幹にもそれがあるなら、芸術として評価を受けることはやはり表現の向かうべき先とは言えるのかな。でもな~。”芸術”という変容した評価はそれはそれで孤独感ブーストさせそうな気もするよな~。芸術カウントすることで削ぎ落とされるものってある。

 

(万物に言えることだが)表現は絶対に未完成である、みたいな話もした。表現が自分を伝え、反応を貰うことを目的としているなら、人間に”完成”がない以上それが完成することはない。どんなに完結したくとも、その意思が途切れるまで(あるいは途切れても)人間の精神は変容し続けるからである。じゃあ人間の完成を目指せば良い。人間が目指す完成とは?完成とはその状態から変容しない。つまり、一番良い状態になって変わらなければいいわけだ。一番良い状態ってなんだ……穏やかで満ち足りてて強く逞しく明るく……みたいな?でもそんな匙加減も相対的ではあるな。

変わらない人間はいない。でももし遠い未来に存在したとしたら、それは精神を持っていると言えるんだろうか。未来がわからないのに”変わらないもの”として可能性を閉じてもいいものだろうか。未来が全部わかればいいのか?全部わかったらそれは未来と言えるのか。過去現在未来……スリー・オブ・パーフェクト・ペアー……むにゃむにゃ……。

でも変わらないものになったら、期待も何もできないんだよな。変わらないから。希望もないし、絶望もないけど。これから先悪くならないけど、良くなるかも、とも考えない。不変ってそういうことだな。不変なのに生きているのかな。これからの状況が何も変わらないなら、生きている意味ってないのでは。

未完成とは可能性なのかなあやっぱり。変わる余地があること、希望と未来があるからこそ、生きるし表現するし、期待をして変わろうと訴えかける。それは世界を信じることであるし、そうでなければ生きる意味がないというのはやはり、真だと思えるなあ。