海底室

ブクブク

最適な人格

毎日疲れますね。みんなはどうですか。

 

推し日記を読んで泣きそうになることがあって、「追い詰められてるな〜」と思うんだけど、なんで泣きそうになるんだろうね。

なんとなく自分の嫌いなインターネット(TwitterやYouTubeなどのことだよ)の性質と根本的に違っているからかなと思っている。

TwitterとかYouTubeとかニコニコ動画とかetcにはすっきりするものとかはっきりするものとか爆笑するものとか強いものとかがいっぱいあって、刺激が強いから中毒性が高いんだけど、私の思う望ましい人の在り方とあまりにも乖離していて、見ているだけで腹が立つし嫌になるみたいなときがある。体調が悪いときとか。

人対人で交流するときに、妙にはっきりドラマティックな啖呵を切るみたいなことは滅多にない。そんなにズバズバ人間関係を千切っては投げられるような人間ばかりではないからだ。嫌なことを言われたりしても「や、そーですかね……?」みたいなことばっかりだろう。んで嫌なことを言った人を憎み切れないことも多い。嫌なことだけ言う人は少ないから。

けどTwitterでバズってる言葉はそうではない。ズバズバと気持ちのいい展開を読んで、みんなで盛り上がって、派閥を作って擬似的に陣取り合戦のようことを楽しむ。派閥という概念が本当に苦手だ。

界隈とか派閥とかよく見る。オタクはすぐ「こういうの言われたら嫌ですか?」とアンケートを取る。人間から人格を剥ぎ取って答えを得ようとする。お前が話しかけたいのは誰だ。

何かのフレームにはまるのが楽というのはわかるけども、それにしたってあんまりだと思うことが多い。そしてTwitterばかり見ている自分もアホだと思うし、Twitterしか見れない気力にしたのは社会だ。労働が悪い。

 

上述した推し日記はそういったものから一歩離れたというか、意図的に一歩離れて、意図的にコンテンツになるまいとする節がある。そこが安心するというか、安全地帯のように感じるんだと思う。コンテンツ化することへの危機感を持っていて安定感がある。人格を剥ぎ取られないように、バランスを測っている気がする。

Twitterの悪い面を見るが、(表面的には)良いニュースというか、賞賛みたいなのも見る。ただ、それもまたコンテンツすぎるというか、人格の領域の無遠慮な踏み入りみたいなのも感じて勝手にはらはらして疲れることもある。

新人vちゅーばーの人がバズりにバズって、偉業を達成したみたいなニュースがあった。すごいな、と思うと同時に、これからの彼女を思うと胃がキリキリする。

vちゅーばーはキャラクターの外見に少し化粧をした人格を被せていることが多くて、簡単に人格の消費が起きやすいと思っている。彼女がどんな風に話してどんな風に笑ってどんな風に驚くかなどは、かなり彼女自身の生身の人格に依拠するが、限りなくコンテンツ化していることでそこに躊躇なく踏み込まれる。そういう商売だと言われればそれまでだけども、だからといって全部許されるわけではない。

彼女の話題性はどう考えても異常で、インパクトだけ一人歩きしているように思う。もちろん彼女自身はとても面白いし、能力に溢れているように見える。それでも集団で同じコンテンツを消費しているという熱狂が話題の根本にあると思う。

そういった熱狂はおそらくすぐ冷めてしまう。彼女自身への攻撃や、人格の過剰な消費なども起こりやすい。そんなときに、彼女には人格として、感情としての逃げ場がないのではないか。

基本的に、コンテンツとしてウケて話題になった人たちには、「否定的な意見」「真面目な意見」は求められない。面白くて、気軽で、インパクトがあって、大勢の価値観を支持する。キャラクターから外れれば「そんな人だと思わなかった」と言われる。

もちろん、他人に人格を見られる立場の人は、大衆からの反応によってその性格や考え方を変えていくことも多いだろう(影響を受けないことは不可能なので)。しかしそれはやはり、私の望ましいと思う人の在り方から外れていくような気がしてしまう。大衆用に最適化されていって、かつて抱いていためんどくさい部分や怒りたい気持ち、否定的な意見が出力されず、本人の中から消失してしまう。「インディーズの頃の方が好きだった」みたいなこと言うバンドファンってこんな感じなのかな。

裏アカウントとかを作ることも可能だけど、それは彼女がキャラクターとして振る舞っている人格とは、また違ったものになってしまう。彼女が表で振る舞っているキャラクターとして発しなければ意味がない生身の意見があるように思っている。

 

私も生身の人間を推している人間として常に自戒しなければならないと思うが、生身の人格をコンテンツとして扱うことに対してインターネットは警戒心が薄い。いやアイドルとかも見る限り現実でもそうか。

vちゅーばーに対して全然偏見で言ってるので、マジで適当ぶっこいてる可能性もあるけど概ねそんな感じです。

人格と対峙することは容易に消費に転じうる、それは話題性が高くなればなるほど発生して、当事者は人格が削れていく。結局「みんなが気をつけようね」みたいなことしか言えないんだけど、消費するのを是とする未来に転じるのも正しいのかもしれない。私は嫌だけども。

彼女が傷ついたり、疲れたら長く休んだり引退できたりする環境であってほしいと思う。ヤバいファンか?

逆にvちゅーばーは多少の匿名性の高さによって話題性がスティグマとしてはたらかない利点があるともとれるか。

 

人格の消費という概念を自分の中である程度明確にしておきたいな。なんだろう。「展示品を見ている感じ」とでも言うのか。

人と人とが話すとき、相手の考えを聞いて、さらに自分の意見も言って、みたいなのが理想とするところだろう。しかししばしば、自分の意見を差し出さなくとも、相手の振る舞いを見ることができる。それがアイドルのような形態の売り方だ。

自分の意見を話すことは当然リスクを伴う。相手に受け入れて貰えるかもしれないが、逆に拒絶されたり、怒られたりするかもしれない。そのリスクを背負いあってこそ対等に会話ができる、と思っている。

しかしショーケースに入れられた人々はそうはいかない。見る側は自分の人格を差し出すことなく、相手の出方を値踏みすることができる。展示品となる人々は多くの場合大なり小なり人格を差し出すことを求められる。このアンフェアな構造こそが消費の概念なのかなと思う。

必然的に1人対大勢になるのも難しい。対話の基本は個人対個人だが、消費される側には大勢であるファンの中から個人を認識することを求められていない。だからこそファンは透明になって、マジックミラーから人間を消費できる。

もちろん、大抵のファンは好意的な人間だ。しかし好意的な人間にたくさん見られている状況で、自分の温厚な部分も過激な部分も抱えておける人間がどれほどいるだろうか。人格を差し出し値踏みされることで、大勢の好意的な人間に対して行動も感情も最適化されていく。消費によって人格が削られていく。

社会に対して最適化することに強い抵抗感がある(その抵抗感によって最適化された部分もあると思うが)自分としては、これほど恐ろしいことはない。そして私もまたそこからは完全に逃れられない。

オタクの皆さんも、神絵師とか神字書きとか言ってないで、その人の名前を呼んでその人の意見を聞いてあげてね。神絵師っていう人間じゃないので。

 

 

私は基本他人のことに興味がない癖に、他人の人格がそのまま、あるようにあってほしいと思っている。自分が迎合したくないから、その環境を担保したいのかもしれない。

Twitterのこと嫌いだけど、誰かの気持ちがそのままこぼれたような言葉は好きなので、怒りながらインターネットを使うハメになっている。不健康だな。

善くありたい。