海底室

ブクブク

誰もわかってないことについて

こんにちは。こんばんはです。

久しぶりでもある。一生懸命日々を生きていますよ。

漫画を描こう描こうと思って先延ばしにし、ゲームに手を伸ばし、挙句に謎の長文を書こうとする始末。

まあ自由ですからね。自由だけど資格試験の勉強はしなければいけない。人間やりたくないな。

 

なんかくら〜い気持ちになったので長文にしてしたためようかと思う。なんで暗い気持ちって記したくなるんだろうね。

発端は「人の気持ちがわからない人はメンタルが強い」みたいなツイートである。Twitterをやめれば人生の8割くらいのQOLがあがる。

件のツイートには「人の気持ちがわからない」特定の誰かを想定してうんうんと同意してる引用rtだかリプだかがついている。もちろん非難する目的である。

「ほんとにああいう人ってわかってくれないんだよねえ。ああはならないように気をつけよ」みたいな感じ。

 

ここでみんなが言っている「人の気持ちがわからない人」というのはつまるところ「他人に不利益をもたらす人間」である。それを「人の気持ちがわからない」と定義し、「気をつけよ」と注意書きすることで自分を「わかっている側」に置く。自分は人に共感することができるから親切にできる。そういうことだ。

典型的に藁人形である。「人の気持ちがわからない人」という中身のない藁人形を作り、各々がそれを手に取り特定の誰かのことを思って呪いを打ちつける。集団丑の刻参り。藁人形は別に「空気が読めない人」「わがままな人」なんでもいい。

しかしまあそこに不満があるわけではない。いや多分あるけど。掘り下げたいところはそこではない。

 

「人の気持ちがわからない人」を非難する人には大抵の場合、自分が「わかっていない側」である意識を表に出さない。事実はどうあれだ。

そんな無根拠な自信がなんだか今日は無性に腹立たしくてしょうがなかった。寝不足のせいもあると思う。

「人の気持ちがわかっている」と公に主張しないでくれと思う。いやわかる。わからんけど。なんか普段からムカつく奴を殴る棒があるぞ!と思って手にしているだけでそこに深い意味がないだろうことはわかる。想像だけど。

でもさ〜〜〜。人の気持ちがわからない人の思考もわかんないわけじゃんか……ほんとにわからないのかわからないふりをしてるのかもわからないわけじゃんか……共感する人だって同じ感情を抱いているのかすらわからないわけじゃん……

「人の気持ちがわかる人」というのは平たく言えば「自分の経験と感情が他人と一致してる確率が高い人」でしかないわけで、それがあるからって無条件に偉いとは言えないじゃんさ〜〜〜〜……。

「人の気持ちがわかるよ」って言葉に怒り狂ってる私の感情も全然わかんないだろうし。意味わかんないよ。他人と情動が一致してれば凄いのかよ。

 

当たり前だが他人には個々の歴史がある。私が認識している範囲外は存在しないと考えることもできるが、私がそういう風に考えているから私の世界はそうなのである。他人は勝手に生きて勝手に動き、勝手にものを食べ勝手に死んでいく。

得体が知れなさすぎる。最も多く時間を共有したかもしれない歳の近い姉のことすら、私にはよくわかっていない。16年くらい一緒の家に住んでいたはずなのにだ。

その逆で、最も多くの時間私を観察していた母でさえ私のことがわかるわけではない。教師も友人もパートナーも誰も他人の全てを知ることができない。自分自身が日記に毎日詳細に出来事と感情をしたためたとしても、誰も1人の人間全部を知ることができない。自分にしか辿れない感情がある。

それが地球に70億人分くらい、もしかしたら動物や虫や植物の分も存在するかもしれない。途方もない話だ。月に立って1人でぼんやりと暗い空を見たらこんな気分になるんだろうか。足がすくむし自身があやふやになる。

同時に自分という存在の強固さが浮き彫りになる。すでに自分1人の歴史を背負って1分1秒ごとに思考を巡らせてひたひた生きてるのに、どうやって他の人間のことを噛み砕けと言うんだろう。自分以外の誰かの歴史が脳内に入ってきたりしたら身体中の穴という穴から体液を吹き出して内臓をぶちまけて死んでしまうんだろうな。そのくらいの重たさがある。

「人の気持ちがわかるよ」と軽々にのたまう人間への怒りは、今までに重ねてきた「誰もわかってくれないじゃん!」の蓄積かもしれない。お前には俺の気持ちなんてわかんねえよ!というやつである。実際そうだ。どんなに隙自語しても自分しかわかってくれない。

 

しかしそう考えると「自分をわかってほしい」という欲求はどこから来てるんだろう。寂しさや虚しさにも根源とかがあるんじゃないのか。

自分のことをわかってもらえないのがわかりきってるなら最初からそんな欲求はない方がいい。あったって意味ないわけだし。共感能力って不気味だ。

宗教上の理由により「生物学的に」みたいなのはNGだ。そういう話をしたいわけじゃないため。

他人に自分を認識してもらうことで自分であるという意識を高めるためだというなら、他者と自分は違う方がより「違う存在」であり自分が自分であるという自信に繋がるはずではないか。その逆だとしたら同化か?自分と同じ存在を求めている説。

たとえば自分が「青い空だね」と言ったら隣人は「白いよ」と言う。「ラーメン熱いね」と言ったら「冷たいよ」と言われる。「セーターちくちくするね」と言ったら「ぬるぬるするよ」と言われる。そしたら自分の感覚ってなにこれ?ってなるか。覚えた感覚と他者の評価が違いすぎる。5本指の生えた手のひらを鏡に向けたらいぼいぼの触手が見える。自分の認識ってなんだ?となる。

自分の形を見るためには誰かに鏡でいてもらわなければならない。鏡に映ったものが自分の視界と同じだとわかればやっとホッとする、ということだろうか。

りんごと生肉を並べて「これってどっちも赤いね」と誰かが言って、他の人も「赤い赤い」と言えばやっと自分の認識をすり合わせることができる。感情もそういう風に「砂漠を歩いて水をもらったときと美味しいご飯をたべたときってどっちも嬉しいよね」と言って誰かが「嬉しい嬉しい」と言えば、やっと自分の嬉しいを知ることができる。逆に言えば誰も嬉しいと言ってくれなければ、その感情は自分だけの宙ぶらりんなものになる。あるんだかないんだかわからない、誰にも見えないおばけみたいなものだ。

そう考えると共感という行いは、それぞれの感情のなんとなく似てる共通項だけを見つけて、それぞれの中で勝手に色付けして勝手にわかる〜って言っている。誰とも共通項がなかった部分は表に出さないから、「しっかり共感できている状況」が出来上がる。他人との共通項でできた物差しは自分の中だけで使うしかない。

けれど「わかる部分」だけで自身が出来ることは、他者との同化を意味する。「わかってもらえない部分」の苦しさがあってこそ自分は自分たり得る。わかってもらえない部分は宙ぶらりんのまま自身の中に空気のように漂い、他者という鏡に映ることはない。そう、つまり「酸素は鏡に映らない」ってことですね。

 

酸素も運命視なんて誰もわかってくれないものを抱き続けてるんだよな。MPLSもみんなそうなんだろうな。

酸素は“鏡”だと思ってるんですけど、酸素自身はその人の「わかってもらえない部分」すなわち「誰のお墨付きも貰えなくて安心できない部分」を投影する存在だからこそ見透かされるようで居心地が悪くなるんじゃないかと今思った。誰にも見せてない誰もわかってくれない部分を突きつけて、強固にする。触媒だから投影された人間の感情を燃やす。

じゃあ酸素自身は誰に自身を保証してもらえるのかと言えば、誰にもしてもらえない。だから存在が希薄。自身がない所以もそのへんにかかるか。

誰にも「それでいいよ」って言ってもらえないまま歩き続けて擦り減った人生なんなんだよ……。

健輔と話をして「他愛ない問答が好き」という自身を思い出したからこそ、自身としてのあり方をやっと小さい炎で燃やし尽くせたという、そういう美しい話なんですね。

 

めでたしめでたし

 

 

アーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!