海底室

ブクブク

方言というソリューション

書いてたら突然再起動してしまい記事が全消えした。書き直す気が失せた。違うこと書こうかな。

 

え〜今日はおうちで資料などを読みました。おうち勤務は快適です。

 

読んでいた資料(というかノウハウとか啓発ぽい本)の中に、めちゃくちゃカタカナ語が出てきた。アジャイルとかコミットとかソリューションみたいなやつ。あれが未だにわからない。

あれは英単語を使ってはいるが、その実英語の用法とは異なっているっぽい。つまりルー語より解読が難解ということだ。

見るたびにイラッとするんだが、方言みたいなものと考えることで多少理解ができる。環境も文化も異なる地域(ここではホワイトカラー業界の文化圏)において、局地的に形成される言語文化。それが方言であり、カタカナ語なわけだ。

私はカタカナ語に対し「日本語使えよ」などと思ってしまうが、方言にはそう思わない。何故かと考えると、それは多分方言を”文化”だと考え、自分の中の”文化は尊重されるべき”という規範に基づいて、良しとしている。対してカタカナ語は、形成されて歴史が浅いため、未だ文化である意識が薄い。

そういえば標準語を生来のものとする人間は、しばしばキツい方言や(標準語圏では)信じられないような文化を有する地方の人間をエンタメとしてとらえ、愉快にこねくり回す性質がある。これは日本の地方に限らず、海外の未開の地の部族などでも同じだ。そして多分こういった性質は海外にもある。

その手のエンタメを形作り、鑑賞するとき、鑑賞者である人間は、驚きと笑いを洩らす。今どき「地方民は格下」という姿勢を露骨に出す者はあまりいないが、確かにそういった側面は存在しているのだろう。「自分たちが基準であり、多数派であるため、少数派の文化を知り、尊重してあげなければならない」という意識が。彼らに悪気などはない。そしてそれは良いとも悪いとも言えない。そのような視点があるというだけだろう。

カタカナ語はどうだろう。彼らは日常的に使っているに過ぎないのかもしれないが、外部には「意識高い系w」という風潮が間違いなく存在する。カタカナ語の話者は、「尊重してあげられるべき文化」の前の、「合法的に嘲笑してもいい文化」としてとらえられてるのではないだろうか。そしてもちろん、合法的に嘲笑してもいい文化などはない。私(と同じくカタカナ語を公に憎む者たち)の倫理意識がアップデートされていない、という話なのだ。

そして、「当然のようにカタカナ語使うな」問題も、方言と同じだと考えればなんら問題ないことに気づく。青森県に訪れて地元民に東北弁で喋りかけられたとして、「標準語で喋ってくれないとわかんないよ!」と怒るのは筋違いだろう。郷に入っては郷に従え。ホワイトカラーの業界に入った以上、カタカナ語で話しかけられるのはやむを得ないことなのだ。その地域に腰を据えた以上、こちらが言語を解していく義務があるというもの。

と、まああれこれ書いたけど、やっぱり個人感情としてカタカナ語は苦手です。普通に日本語で言えるしわかりにくいし文字数多いし馬鹿みたいだから。それはそれとして、無闇な嘲笑などは行わないよう気をつけたいとも思います。

 

以上。ねむたいです。おやすみ〜