海底室

ブクブク

隣星人と握手

こんばんは。久しぶりに絵を描きました。

 

実家に帰って猫を吸っています。吸い放題の猫、素晴らしい。かわいすぎる。猫って神が作りたもうた最も至高の生き物ですね。毛がもさもさだし。

めっちゃ入居の手続きをしました。偉かった~。やれることやった感あります。あとは明日ちょっと一本電話かけて手続き系は終了な感じですね。引っ越しは本当にやることが多い。タスク管理アプリとか入れとけばよかったなあと今更ながら後悔しています。

忙しいと感受性が死ぬのはたくさんの人がご存じかと思います。死にます。みんなは死なないように気をつけようね。帰郷に関するあらゆる感受性が死んだし、世間の情勢への感情がなさすぎる。倫理観なさすぎ人間の出来上がりです。やべ~人になる前にはやくフリーになりたいことですね。

でもお絵かきできたのでちょっと余裕できてきたかな。排泄と一緒だから便秘になると具合悪くなるんですよね。どっさりウンコマン。

 

社交的でない人間は当然社交的な人間より大変である。なぜなら世間は社交性を善として回っているから。考えたら当然なんだけど、私にはできない社交性が世の中には多すぎるなあと辛くなることがままある。社交的な行い以外で相手に感情を伝える手段がない。「あなたに敵意はないですよ」を伝えるためには社交が必要だ。

世間の標準的な社交はずいぶんハイコンテクストで高度な能力を必要とされるものばかりだなと感じる。これは私が社会に不適合だからなのか、それともみんな私と同じくらいの苦痛を感じながら我慢してるのか、区別がつかない。多分どっちもなんだろうな。

”住む世界が違う”という表現は何も芸能人とかセレブとか、そういう身近でない人たちにしか使えない言葉ではない。友人の知り合いや、はたまた友人自身が、あるいは親戚だったり同級生だったりが、あっさりと違う世界の人間だったりするので驚く。違う世界のかろうじて交わったところでかろうじて交流しているのが人間関係なんだろう。隣人は違う惑星の人間だ。

ただそうやって違うことを、押し付けることも譲歩することも含めて、俯瞰して見られるようになったらもっと澄んだ視点になるんだろうと思う。私はまだまだ生々しい感情に振り回されてしまいがちで、情けない姿を晒してしまうこと多々あり。

こういう種の話って誰かにしていいものか迷うよね。社交性の無さを言い訳してるだけじゃんとか、いいから適合しろよとか思われてんじゃないかと勘繰っちゃう。実際そうだともそうでないともわかんないけど、ふわふわした感覚を掴むためにも言葉にすることを通して輪郭を撫でていきたいんだよな。自分の中に別の人格でも作ればいいんじゃないか?なんか一人でチャットっぽくできるアプリあったしそれで喋ってみようかな。ヤバい精神状態になりそう。

 

明日も元気にやっていきましょう。